このページは、新 消防雑学事典 二訂版(平成13年2月28日(財)東京連合防火協会発行)を引用しています。
最新の情報ではありませんので、あらかじめご了承ください。
|
江戸の町における大火は、徳川家康が江戸に入った天正18(1590)年に増上寺が炎上したのに始まり、慶長6(1601)年11月2日には日本橋から火が出て、江戸の町を一夜で灰にするほどの大火が相次いで発生しました。 当時の民家は草葺き屋根でしたから、いったん火が付くとすぐに燃え広がりました。 このため、幕府は慶長年間(1596〜1615)に、「町中草葺き屋根故に火事絶えず、此序に皆板葺きになすべし」とお触れを出しました。 このお触れは、防火という面から見ると、ほとんど効果はなかったと思いますが、このお触れを見た日本橋に住む滝山弥次兵衛は、三河から瓦を取り寄せ、町家で初めての瓦葺きの屋根としました。 とはいっても、全部の屋根を瓦葺きにしたのではなく、街道側の半分だけだったので、人々は彼のことを半瓦弥次兵衛と呼び、江戸の名物となりました。 ところが、奉行所から「町家の瓦葺きは身分不相応でまかりならぬ」と、きついおとがめを受けたというのですから、封建時代の身分制度の厳しさを感じさせます。 享保2(1717)年に江戸町奉行となった大岡越前守忠相は、江戸の町家の不燃化の必要性を痛感し、町名主たちに瓦葺きについての諮問をしています。 これに対する町名主たちの回答がすこぶる現実的なもので、「瓦葺きにしたら飛火しなくてよいと聞いてはいるが、そのためには柱などは、今までよりも太い材木を使って建て替えなければならないので、とても今の町人の力ではできるものではない」というものでした。 つまり、主旨には賛成だが、実行には反対であるとして忠相を困らせたのです。 江戸の町並みの模型(消防博物館蔵) その後、不燃化地区を設けたり、時には茅や藁葺屋根の小屋を撤去させたりしています。 これは半瓦弥次兵衛事件から、百年余も過ぎてからのことです。 町家が焼けたあと、瓦葺以外の家は建ててはならぬという制度がつくられたのは、しばらく間があって、寛政4(1792)年になってからのことでした。 そして今日、建築基準法には、「防火地域又は準防火地域内の建築物は、すべて屋根を不燃材料としなければならない(第63条の要約)」とされており、また、「それらの区域外でも指定された区域では、屋根を不燃材料としなければならない(第22条の要約)」と定められています。 前記のこととは別に、ヨーロッパ各国では、由緒ある寺院やお寺などの古い建物を後世に伝えようとする、保存思想が根強く残っています。 これは、建物が石やレンガ等不燃性の物質で作られていることも要因の一つになっているものと思われます。 今日、日本では建物の利用効率のみを追求し、歴史的な耐火建物等を壊して、近代的ビルと呼ばれる新しいビルを建てる傾向が目につきますが、これは残念なことです。 |