このページは、新 消防雑学事典 二訂版(平成13年2月28日(財)東京連合防火協会発行)を引用しています。
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慶安時代(1648〜1652年)のころから、大火の後や火災のシーズンには、いろいろな火の用心に関するお触れが出されています。
はじめは「昼夜火の用心堅く申しつけること」程度のものでしたが、次第に具体的な規制内容を示すようになりました。 慶安元(1648)年には「水溜桶、天水桶には水を満たし、梯子を用意しておくこと」のお触れが出されました。 これは、消防用設備の設置について出された、わが国初の町触れかもしれません。 明暦元(1655)年「町中、川岸端裏表にてはきだめ焼くことは禁止すること。月行事も油断せずに見張ること。 また会所等で焼くことも禁止する」のお触れは、現代に尾を引くゴミ戦争を思わせます。 万治元(1658)年には「風が烈しいときには公儀御用であるか、あるいは急用であるほかは家に居て火の元の用心につとめ、外に出てはならない。 もし、どうしても外出するときには隣の人たちに断わってから出ること」と定められました。 一人者の家からの失火も多くあったらしく、享保8(1723)年の触書には「風が烈しいときには、独身の店借りは稼ぎに出てはならないこと」とあります。 このほかにも、火災予防に関しては、いろいろなお触れが出されています。 二階で火を扱うこと、消炭を二階の物干に置いたり、四斗だるや俵に入れておくこと、行燈を掃除したときの油を堀や会所などに捨てることなどが禁止されたり、風呂屋の釜焚き時間の制限、花火の打上げと販売の禁止、屋台を引いてうどんやそばを売るために火を持ち歩くことの禁止などがありました。 江戸時代から明治時代のはじめにかけて、火食の禁という制度がありました。 これは、将軍等がお出ましのときは、その沿道において、火を扱う商売は休みにせよというものです。 明治元(1868)年の東京への遷都に伴い、9月20日、明治天皇は京都から東京へ向かわれましたが、これを迎える東京府は、道筋に当たる品川十八寺門前から呉服橋御門までの町名主を呼び集め、火食の禁を指示しています。 火食の禁が廃止されたのは明治9(1876)年以後で、人々は大いに喜び「火食の禁は愚かである。童顔露わに四民の奉迎をお許し遊ばされるということは、何という喜ばしきご治世であろう」と感激したと伝えられています。 前述したことは、将軍等がお出ましのときの火の使用制限です。 次に述べることは、江戸時代の失火罪ですが、罪の軽重が将軍らの外出に関係があり、また寺社に対する断罪に、ある種の考慮が払われていることは、時代の思潮がうかがわれます。 これに対して火災の際、地主、火元の月行事、火元の五人組、風上二町、風脇左右二町ずつの月行事に至るまでが罰せられたのは、その罪、九族(高祖父、曾祖父、祖父、父、自己、子、孫、曾孫、玄孫)に及ぶというようなもので、防火に関して自治的に、しかも強制力をもって解決させようとした意図の現れであったと思われます。
なお、「押込」とは、一室に閉じ込め、外部との接見、音信を禁じた刑で、俗に「座敷牢」といわれ、二〇日・三〇日・五〇日・一〇〇日の押込と日数に軽重がありました。 また、「手鎖」とは、両手に鎖又は手錠をかけ、与力がこれに封印して家の中で謹慎させた刑罰です。 手鎖にも、三〇日・五〇日・一〇〇日と日数に軽重がありました。現在の火の使用の制限で代表的なものは、火災警報発令下のそれでしょう。 消防法第二二条に基づいて、気象条件が火災の予防上危険であるときに、市町村長が発令するものです。 これが発令されると打鐘やサイレン、掲示板、吹流しなどによって地域の住民に知らされ、それが解除されるまでの間は、市町村条例で定める火の使用の制限に従わなければなりません。なお、違反者には罰金又は拘留の罰則が科せられます。 現在、東京において、気象条件による火災警報発令の基準は、「東京消防庁消防信号等に関する規定」で次のように定められています。
自治体消防発足後、東京で火災警報が一番多く発令されたのは、昭和40(1965)年の12回です。 また、発令された時間が最も長かった記録としては、昭和45(1970)年1月16日の15時から同月30日の6時までの327時間があります。 この間に675件の火災が発生し、1万3,454平方メートルが焼失し、13人の死者と111人の傷者が出ています。 また、その四日後の2月3日12時には、再び火災警報が発令され、以後119時間30分間続きました。 これは、昭和51(1976)年1月24日11時から同月29日12時までに及ぶ121時間に次いで、火災警報発令継続時間としては第3位を記録しています。 |