牛込消防署
歴史を学ぶ
2024年11月17日 更新
このページでは、牛込消防署の管内に関する歴史を紹介しています。
定火消発祥の地

明暦3年(1657年)に江戸では大きな火事がありました。これを「明暦の大火」といいますが、この火事で江戸の町はほとんど焼けてしまいました。
そこで、今後このような大きな被害が出ないようにと、幕府(4代将軍家綱)は、4人の旗本に命じて「定火消」という消防組織を作りました。そのひとつが、現在の市谷左内町21番地および市谷田町1丁目地内(地図)に置かれました。
屋敷内には火の見やぐらが建てられ、定火消役の旗本以下、火消人足などが火事に備え出動できるように準備していました。これが現在の消防署の元といえます。
そこで、今後このような大きな被害が出ないようにと、幕府(4代将軍家綱)は、4人の旗本に命じて「定火消」という消防組織を作りました。そのひとつが、現在の市谷左内町21番地および市谷田町1丁目地内(地図)に置かれました。
屋敷内には火の見やぐらが建てられ、定火消役の旗本以下、火消人足などが火事に備え出動できるように準備していました。これが現在の消防署の元といえます。
江戸の消防
武家消防前期・後期
江戸初期から明暦の大火までは消防は各大名の家臣たちの任務でした(大名火消し)。これは法律化されたものではなく、自然発生的なものであると考えられています。一口に大名火消しといっても方角火消、所々火消、奉仕火消があり、出火の際はその石高(面積のこと)により、軍役に準じた人数を繰り出していました。
明暦の大火後、大名火消しに変わって主力となったものが定火消でした(定火消発祥の地参照)。当初は破壊消防が主体であったために、消防は必然的に武家の任務となっていました。
明暦の大火後、大名火消しに変わって主力となったものが定火消でした(定火消発祥の地参照)。当初は破壊消防が主体であったために、消防は必然的に武家の任務となっていました。
町方消防前期
武家消防は町方の火災はなおざりにしがちであり、大火頻発の状態は変化しませんでした。そこで、江戸町奉行の大岡越前忠相は江戸消防組織の整備に着手し、町火消を制定しました。これは出火の際、火元の町と風向き3町、左右2町、裏町3町の合計9箇町馳附制と呼びました。しかし、町火消は平常時土木工事に就いていたため、出動が遅く、消防に手加減を加える者さえあり、各町ともこれを町抱えとする費用も多かったため、徐々に自発的に町内有志の出金で活動する自衛消防に当たる者が出てきました。
町方消防後期
嘉永5年(1852年)老中阿部正弘は各町に店火消整備の命令を発し、自衛消防に当たる者を店火消と呼びました。この制度は普及して竜吐水や水溜桶など店火消のもののほうが町火消のものより整備され、風が強いときは、全市に拍子木を打継がせる火災警報制度を実施しました。この制度は甚だ効果的で、火災の発生はほとんど見なくなりましたが、費用の負担が大きく、幕府内外の他事情により数年で廃止されてしまいました。
以上消防組織の歴史を振り返ってみると、その時代の要求によって武家から町火消へ、さらに一般市民へと次第に自治的に移り変わってきたことがわかります。
以上消防組織の歴史を振り返ってみると、その時代の要求によって武家から町火消へ、さらに一般市民へと次第に自治的に移り変わってきたことがわかります。
問合せ先
- 牛込消防署
- 総務課
- 管理係
- 03-3267-0119(内線231)