消防の歌あれこれ
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畏き宮居仰ぎつつ
勢へ我等が我等が消防歌
きこえよまさにこの誠
きこえよまさにこの誠

上の歌詞は、昭和11(1936)年に東京府消防協会がつくった帝都消防歌の一節です。この帝都消防歌は、大日本消防協会が昭和9(1934)年に全国200万人の消防組員の士気を高揚するため、土井晩翠氏などの協力を得てレコード化した大日本消防歌に触発されて作られたものです。
帝都消防歌の歌詞は、全国から100編以上の応募があり、この中から江口隼人氏の作品が選ばれ、北原白秋氏が手を加え、作曲は山田耕筰氏に依頼しました。レコーディングに際して伊藤久男氏を起用し、山田耕筰氏自らが指揮棒を振るという、今日ではなかなか実現できないような人たちによる曲で、当時NHKのラジオ体操の時間を通じて、広く全国に流されていました。
ところで帝都消防歌は、警視庁消防部時代の作品であったため、昭和23(1948)年3月、自治体消防として発足した東京消防庁にとって、歌詞がそぐわないものとなり、また、昭和24(1949)年7月、東京消防庁音楽隊が誕生したこともあって、新しい消防の歌を望む声が多くなってきていました。
これらのことを受けて昭和24年8月、東京新聞紙上に、「都民を水火から護る消防官の士気を鼓舞し、また一般都民にも親しく愛唱されるような明るい感じの四節以内の歌詞で、締切は9月20日、発表は10月上旬、審査員は追って発表」という内容の、応募規定を掲載しました。
実は、この時すでに、審査員は決まっていたのですが、応募者の中には応募ゴロといわれる人たちがいて、審査員が分かるとその好みに合わせて歌詞が作られるので、後日発表ということにしたようです。
ところで皮肉なことに、歌詞の募集に関する応募規定を発表する数日前、読売新聞社が「巨人軍の歌」の募集記事を掲載していました。 当時から巨人軍は川上、千葉、青田という名選手を擁し人気の的で、しかもこの歌には多額な賞金が付けられていました。
一方、消防の歌は、自治体消防として日が浅く、一般市民がどれほど消防について理解しているか懸念され、応募は少ないのではないかと心配されましたが、4,743通もの応募がありました。
これらの応募作品から予備選考を行い、9月30日、大木惇夫、西条八十、藤浦洸、古関裕而の各氏と、東京消防庁からは塩谷消防総監、内藤音楽隊長が出席して最終審査を行い、秋田県在住の花岡俊躬氏の作品を採用することに決定し、審査員の大木惇夫氏が補作し、これに古関裕而氏が曲を付けました。 「帝都消防歌」が生まれてから13年目に、東京消防歌が誕生したのです。
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一
不二ヶ嶺 晴れて 立つ虹の
平和をしるす この世紀
自治の緑土に 翳をなす
出水を防ぎ 火を鎮め
都の華と 謳わるる
われら消防 誇りあり -
二
星座の光 夜をこめて
見張りに倦まぬ この櫓
眉をひきしめ ゆるみなく
栄ゆき伸びる 東京の
都民の夢を 守りぬく
われら消防 まことあり -
三
聖けき職に 起つものの
不断の備へ この手練
水と機械と 人による
三位の粋の 凝るところ
激流 猛火 なんのその
われら消防 覚悟あり

この東京消防歌は、火災予防週間の最終日の昭和24年10月23日、日比谷公会堂において、東京消防庁音楽隊の演奏でコロンビアの松田トシさんによって発表され、その翌日には、NHKのラジオを通じていち早く全国に放送されました。
東京消防歌が誕生した翌年の、昭和25(1950)年の東京消防出初式では、内藤隊長作曲の行進曲「消防」が初演され、また、東京消防庁音楽隊の演奏により「東京消防歌」にのせて、消防体操が披露されました。この二つの曲は、常に式典や行事などで演奏されています。
なお、消防の歌には前記の外に、消防署歌や消防少年団歌など職員・団員を対象としたものや、消防歌謡、消防をテーマとした映画の主題歌なども結構作られています。
中でも昭和31(1956)年、曽根史郎さんが歌って大ヒットした「若いお巡りさん」にあやかって作った、映画の主題歌「夜霧の望楼(歌・曽根史郎)」や同じく映画の主題歌「我が生涯は火の如く(歌・橋幸夫)」、和田弘とマヒナスターズが歌った「御苦労さん」などは、当時職員はよく口ずさみました。