木遣とはしご乗り
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消防出初式は、新春に告げる風物詩の一つとして、各地で恒例行事として行われています。
近代的消防機械のパレードや精鋭部隊が披露する消防演技の中にあって、粋な半纒姿がくりひげられる木遣歌やはしご乗りは、町火消の心意気を今に伝えています。
木遣歌(きやりうた)は、江戸の中期ごろには鳶職の人たちの間で盛んに歌われていました。
大阪城築城(1583年)のとき、大木などを運び出す掛声や音頭とりの歌が自然に起こりましたが、このときの歌が木遣歌の起源となったともいわれています。
また、入宋して禅法をおさめた栄西禅師が、建仁2(1202)年に建仁寺を創建したとき、仕事をスムースに進めるため工事人夫に歌わせたのがはじまりだとする説もあります(『近代世事談』)。 ともあれ、労働歌から発祥したことは確かのようで、元来建築そのものが慶事であったことから、木遣歌もめでたい歌として歌われたようです。
やがて町火消が誕生したとき、その中心となったのが鳶職の人たちであったため、木遣歌は町火消に伝承され、それが以後の組織の変遷につれて直接的には消防の手を離れて受け継がれ、現在に至っています。 東京では(社)江戸消防記念会(事務所・新宿区四谷3-10)がその保存の中心となっており、出初式ばかりでなく祭礼や建前などのときに儀式の歌として広く歌われています。
この木遣歌は、昭和31(1956)年、「郷土芸能のうち民謡に属し、芸能上特色を有するもの」として、東京都の無形文化財に指定されました。木遣歌を歌う場合は、音頭をとる木遣師と、受声をだす木遣師が交互に歌います。
木遣歌の数は、総数110曲とも120曲ともいわれています。 ここではそのうちの『黒がね』という粋な歌を紹介します。
銀のかんざし 伊達には差さぬ
きりし前髪の とめにする
洗い髪なら わらで結んで薄化粧
つげの櫛横にさしゃ
わたしゃ よいよい よいやなあ
袖でかくして あげようとすれば
御部屋の障子が 穴だらけ
苦労人なら 察しておくれよ御部屋様
誰しも 恋路はおなじこと
町火消の心意気を伝えるものがもう一つあります。
三間三尺(約6メートル・昭和期に入る以前は、4間半のものを使っていた)の青竹に、14段の小骨(はしごの桟)を付けたはしごの上で、12本の鳶口に支えられて妙技を披露するはしご乗りです。 そして、このはしご乗りを行うのも江戸消防記念会の人たちです。
記念会員には組頭を筆頭に、副組頭、小頭、筒先、道具持ち(纏持ち、はしご持ち、刺又持ち)および平人の序列がありますが、はしご乗りをするのは道具持ちの役割と決められています。はしごの先端部分を「はいふき」と呼びますが、このはいふきや小骨を使って「背亀」、「腹亀」、「鯱(しゃち)」などと呼ばれる技が演じられます。

はしご乗りの起源は定かではありませんが、延宝年間(1673~1681)ころの見世物の一つに、はしごさしという言葉が見えていますので、この頃から行われるようになったのかもしれません。
享和3(1803)年には大阪の女軽業師玉本小金が、はしごの上でしゃちほこ立ちをして見せたという記録があります。 消防出初式の発端となった万治2(1659)年の上野東照宮前の出初では、すでに神前ではしご乗りを披露していますので、消防のはしご乗りは歴史も古く、長い伝統があるということになります。
ところで、はしごそのものの歴史はさらに古く、登呂(弥生時代)やその他の遺跡からも出土されているのをみても分かります。
次に、現在残っているはしご乗りの形を紹介します。
形/技 | 頂上技 | 返り技 | 途中技 | わっぱ技 |
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形 | 膝八艘 爪八艘 一本八艘 一本遠見 二本遠見 一本邯鄲 二本邯鄲 枕邯鄲 二本鯱 膝立鯱 一本鯱 唐傘 |
肝漬 背亀 腹亀 二本腹亀 大返り 藤下り 外返り 鯱落ち 館返し 逆大の字 花散らし 一本花散らし |
膝掛 谷覗き 鼠返し 腕溜め 吹流し 横大の字 飛込 花散らし 足絡み 爪掛 途中鯱 駒落し |
吹流し 横大の字 邯鄲 谷覗 逆大の字 象鼻 野猿返し 横大の字 子亀つるし 足釣り 谷覗 釣亀 |

