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東京消防庁ライブラリー消防雑学辞典

このページは、新 消防雑学事典 二訂版(平成13年2月28日(財)東京連合防火協会発行)を引用しています。
最新の情報ではありませんので、あらかじめご了承ください。


消防雑学事典
?救急業務のはじまりと救急救命士の誕生

mark 急業務の記録としては、18世紀のナポレオン戦争のとき、フランス陸軍軍医のジーン・ラリーが戦場に馬車を走らせて傷兵の救護に当たったという記録があります。市民社会のなかでは1869年にシンシナティ市(米)の病院が、救急馬車を使って患者を搬送したという記録が残っています。

救急業務の開始式
救急業務の開始式
最初の救急車は、1899年にシカゴのミハエル病院で使われたのに始まるといわれています。
わが国における救急業務は、神奈川県警察部が昭和8(1933)年に横浜市の横浜消防署に、キャデラックの改造救急車を配置したのに始まります。 次いで翌9(1934)年には名古屋市の中消防署が、同年12月には東京の日本赤十字社東京支部が2台の救急車をもって、それぞれ救急業務を開始しています。


ちなみに東京市内では、大正元(1912)年には、298台しかなかった自動車が、昭和10(1935)年には27,000余台と約100倍に増えたことに伴い、昭和9(1934)年には交通事故で526人が死亡し、20,000人余りもの怪我人が発生するという時代になったことから、救急業務が開始されることになりました。

救急業務を開始するに当たり、救急車が珍しい時代でしたから、市民にその利用を呼びかけるのも大変な仕事でした。横浜では、新聞や車内に広告を出したり、ポスターを貼り出す一方、電話帳や運転免許証に救急車呼び出し番号を印刷したりしました。

名古屋では、ポスター4,500枚を風呂屋、床屋、駅などに貼り、立て看板100本を街路の要所に立て、さらにビラ26万枚を各戸に配布して宣伝につとめたといわれています。また、救急車の呼び出し番号と救急車の自動車番号を、「99」に統一するなどのアイデアも出されたりしました。
東京では日本赤十字社が、市内の主な50の交差点に救急箱や担架、毛布などを備え付け、近所の青年有志に救急講習を行い、救急車が到着するまでの応急手当ができるように配意したりしました。

このように事前準備に万全を期した結果、いざ救急車が活動を始めると、横浜では年間に223回の出動があり、262人を収容しました。
名古屋でも運用を開始した7月15日から10月31日までの短期間に、148件の出動があり、当局が考えていたよりずっと多く救急車の要請がありました。

東京では当時、約2万件もの交通事故がありましたので、下谷区竹町および京橋区槇町の2つの救護所に配置された2台の救急車が精一杯活躍しても、要請にはとても応じきれませんでした。そこで、警視庁消防部は公設の救急隊を設けるべく当局に働きかけましたが、予算の獲得が容易ではなく、なかなか実現しませんでした。
これを見かねた(財)原田積善会は、ダッジブラザーズ社の救急車6台を消防部に寄贈しました。昭和10(1935)年も末のことです。

消防部は、さっそく60人の救急隊員を選抜し、2か月間に147時間の救急講習を行い、消防課計画係の主管業務として、昭和11(1936)年1月20日に救急隊6隊(丸の内、品川、麹町、大塚(現・小石川)、荒川、城東消防署)により救急業務を開始しました。 救急病院は172院、入院費などの支払能力がない患者のための協力病院は10院というのが業務開始時の受入れ体制でした。 この年の出動は1,022件あり、837人を収容したという記録が残っています。
戦時中、消防部が行っていた救急業務の一部を、警視庁警務部警防課に移管した時期がありました。

それは昭和17(1942)年11月1日から終戦までの間で、消防は総力を結集して空襲火災の鎮圧にあたるため、空襲に伴う救急業務は、警視庁警務部が所掌することとなり、各警察署に救急車が配置され、消防部と警務部がそれぞれの立場で二面的に救急業務を行っていました。

警視庁消防部時代の救急業務は、警察業務の一分野として執行してきたため法律上の疑義は生じませんでしたが、昭和23(1948)年3月7日、消防組織法の施行に伴い消防が警察から分離独立してからは、救急業務のうち水火災および地震等の災害現場における救急業務を除き、交通事故、その他公衆の集合場所等における救急業務を、消防が行うことについて法律上疑義を生ずることとなりました。


高度処置救急隊
高度処置救急隊
そこで、その根拠を明確にするため東京消防庁では、昭和27(1952)年10月2日「消防関係救急業務に関する条例」、さらに翌昭和28(1953)年1月8日「消防関係救急業務に関する条例施行規則」を制定しました。
条例制定以後の救急業務は一応根拠が確立されたものの、「消防が行う」という点では、まだ根拠法としては不明確で、救急業務の責任と義務を明確にする必要がありました。

以後種々の検討が行われ、昭和38(1963)年4月15日法律第88号をもって消防法の一部(第一条・第二条第9項)が改正され、長年の懸案事項であった救急業務の法制化が実現され、今日に至っています。

昭和60年ころには、救急需要は増加の一途をたどり、救急活動の内容も複雑かつ多様化し、年々困難性を伴ってきていたことに加えて、救急医学の目ざましい進歩は、救急隊員に対して、より高度な観察能力や処置技術を要求するようになってきていました。


高度処置救急隊運用開始式
高度処置救急隊運用開始式
こうした社会の要請に応えるため東京消防庁では、昭和62(1987)年5月1日、救急隊指導医制度を導入し、災害救急情報センターに24時間体制で医師を配置して、救急隊員に対して医師が、重症、重篤等の傷病者に対する救急処置および適応医療機関の選定に必要な助言・指導を直接行い、より適切な救急業務の推進を図るようになりました。

一方、欧米における救急業務には、十数年前からドクターカー制度(医師が同乗している救急車制度)やパラメディック制度(救急隊が救急現場で医療行為の一部を行う制度)が導入され、あわせて国民に対する蘇生法の普及啓発を行うなど、救急搬送途上の医療の充実と、傷病者の救命率の向上を図っていました。

政府は、これらの制度をわが国にも導入しようと、それまで禁止されていた医療行為の一部を実施することができる救急救命士制度の創設の方針を打ち出し、平成3年4月23日、救急救命士法が制定され、同年8月5日施行されました。
この法律の制定に伴い、所定の教育訓練を受け、国家資格を有した救急隊員は、電気的除細動、静脈路の確保、器具による気道確保等の高度な処置を行えるようになりました。

また、東京消防庁では、この救急救命士制度の法制化以前に、消防総監の諮問機関で、学識経験者等で構成される「東京消防庁救急業務懇話会」に対して、「呼吸循環不全に陥った傷病者に対する救急処置はいかにあるべきか」について諮問を行い、必要な教育を経た後に、速やかに実施すべき内容について答申を得ました。



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