このページは、新 消防雑学事典 二訂版(平成13年2月28日(財)東京連合防火協会発行)を引用しています。
最新の情報ではありませんので、あらかじめご了承ください。
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![]() このことについては後に記すこととしまして、まずは火事のことを述べます。 松竹梅湯島掛額
![]() 天和元(1681)年2月の大火で焼け出された八百屋太郎兵衛一家は、駒込の円乗寺前に仮小屋を建て、しばらく住んでいました。 そのうちに、娘お七は、寺小姓の左兵衛と人目を忍ぶ仲になっていましたが、皮肉にも太郎兵衛の新居が元の場所にできたので、門前の仮住いを引き払わなければならなくなりました。 その後のお七の胸の内は、いまさらいうまでもありません、そこに現れたのが、ならず者の吉三郎で、彼はお七の耳にささやきました。 「それほどお小姓が恋しいのなら、もう一度、家が火事になれば円乗寺に行ってられるぜ。」 恋は盲目のたとえどおり、お七は前後の見境もつかなくなり、明けて間もない1月のある日、自分の家に火をつけ、円乗寺へと駆け出したのです。 この放火が、江戸の中心部を総なめにする大火の元となったという説もありますが、実際は近所の人がすぐに消し止め、ボヤで済んだというのが真実のようです。 しかし、当時は「失火者斬罪令」(延宝6年)があった時代です。 ましてや放火犯人は引回しの上、死罪とされていましたので、お七は天和3(1683)年3月29日、鈴ヶ森で火焙りの刑に処せられたのです。 この時、お七は17歳でした。 ならず者の吉三郎は、お七をそそのかし、火事場泥棒を決め込んでいたところを捕えられ、教唆犯としてお七と同じ刑に処せられたのです。 一方、お七の恋の相手の左兵衛は、このことを知って自害をしようとしましたが果たせず、以後は剃髪して高野山や比叡山を巡り修行につとめ、やがて目黒に戻って西運堂を建立し、名も西運と改めて一代の名僧とまでなりました。入寂したときは、70歳を越えていたと言われています。 八百屋お七の墓(円乗寺・文京区白山)
![]() 火事の日についてはすでに書いておきましたが、お七が焼け出された火事については、天和元年12月28日だとするもの、および翌2年の同月同日だとするもの(どちらも記録に残る火災)があります。 焼け出された太郎兵衛(これも市左衛門とするものあり)一家が身を寄せた寺についても、正仙院だとするものがあり、また寺小姓の名にあっては、左平、吉三、生田庄之介といろいろあります。 次にお七を素材とした文学作品などについて紹介します。 お七を題材とした最初の文学作品は、お七が火焙りの刑で処刑された天和3(1683)年から数えて3年後の貞享3(1686)年で、井原西鶴によって「好色五人女」の中に書かれました。 人形浄瑠璃としては、元禄16(1704)年2月、大阪豊竹座で上演された紀海音作の「八百屋お七歌祭文」があります。 歌舞伎狂言に初めてお七が登場したのは、宝永3(1706)年正月、大阪嵐右衛門座で公演された吾妻三八作の「お七歌祭文」で、その後数多くの作品が演じられましたが、中でも黙阿弥作の「松竹梅雪曙」は、安政3(1856)年、市川小団次(四代目)が、市村座において人形振りで見せて、大評判となった作品です。 落語としては、お七が放火の罪で火焙りになったことを知った恋人の「吉三」が、可哀相にと自分も大川に身を投げてしまいます。 あの世で出会った二人が、「お七か」、「吉三さん」と抱き合うと、「ジュウ」という音がしました。 お七が火で死に、吉三が水で死んだことから「火」と「水」が合わさって「ジュウ」。 お七の「七」と吉三の「三」を足して「十」という仕込み落ちの話です。 八百屋お七の火事は、放火火災といわれています。そこで江戸時代の放火に関する刑罰について、見てみると次のようでした。 江戸時代から現代に至るまで、放火は常に火災原因の上位を占めています。 江戸時代、放火の予防・取締り方策として「火附盗賊改」を設けたり、放火に関する町触れを出す一方、寛保2(1742)年、江戸幕府の基本法典として制定した「公事方御定書」、別名「御定書百箇条」の中に、放火・失火に関する罰則を定め、放火犯や失火を罰していました。 次は、「御定書百箇条」に定められた放火に関する刑罰です。
鈴ヶ森刑場跡
![]() なお、「火罪」とは俗にいう「火焙りの刑」のことで、「死罪」とは「斬首(打首)の刑」で、この刑は、下手人(人を殺し、情状酌量された者が首を斬られる刑)よりは重く、獄門(斬首されてからその首を3日間刑場にさらすという恥辱が付加された刑)よりは軽い刑でした。 |