このページの本文へ移動
東京消防庁ライブラリー消防雑学辞典

このページは、新 消防雑学事典 二訂版(平成13年2月28日(財)東京連合防火協会発行)を引用しています。
最新の情報ではありませんので、あらかじめご了承ください。


消防雑学事典
?宵ごしの銭と江戸の華

mark 江戸四郎重継が、武蔵国豊島郡の一部であった今の皇居の地に、館を営んだのは平安末期のことです。
そして、長禄元(1457)年には太田道灌が築城、その後、上杉、北条の手を経て徳川家が幕府を開くに及んで、多いに繁栄したのが江戸の町です。

江戸に生まれ育った者を江戸っ子と呼ぶようになりましたが、こういう人たちには熊さん、八っつあんのような職人、江戸生まれの商人や鳶人足が多くいて、江戸に住むことを誇りにしていました。
こうした江戸っ子の間では「宵ごしの銭は持たぬ」の言葉にみられる気っ風の良さや、「火事と喧嘩は江戸の華」といわれる威勢の良さを自慢の種としていましたが、現代にもその気質は受け継がれているようです。

ところで、
江戸っ子の生まれぞこない銭をため
江戸っ子の死にぞこないは倉を建て

という川柳がありますが、その真意はどこにあったのでしょうか。

江戸は、日一日と繁栄していきました。
必然的に住宅も多くなり、土木建築関係の職人は、江戸のどこに行っても仕事にあぶれることはなく、遠く地方からも働き手が入ってきました。

加えて、大火でもあると復興の町づくりのため、大変活気に満ちた町となったようです。
そんなわけで、今日得た銭は全部はたいても、明日の収入があるから心配する必要はなかったのでしょう。

ここに宵ごしの銭不要論が出たとするのが一説です。

しかし、現実にはそんなに甘くなく、住まいはもちろん、貯えておいた銭までも灰にする大火が、たびたび発生していた時代ですから、火事になって一夜のうちに乞食になってしまうよりも、今日のうちに使ってしまえというすてばちな気持ちが多分にあって、この言葉が生まれたとする説が実際のようです。

火事を遠望する人々には、舞い上がる炎や火の粉は華に見えたでしょうが、たび重なる大火におびやかされる江戸の市民にとっては、死活の問題にもつながる深刻な悩みでした。

江戸の華などと言って、意気がってばかりはいられませんが、だからといって、江戸の町を捨てて出るには未練が残る。

そこで、ええい! ままよ! と、半ばやけっぱちの強がりが江戸の華をつくりあげ、それで自らを慰めざるを得なかったのだとみるべきでしょう。

『東京市史稿』(変災編)は、徳川家康が江戸城に入った天正18(1590)年から明治40(1907)年までの317年間に、江戸(東京)で起こった火災の中から主なものを記録していますが、それだけでも873件の火災が記録されています。

これをいわゆる大火とされるものだけに限ってみますと、110件となり、さらにこれから11件にも及ぶ江戸城の火災および1件ずつの兵火と地震による火災の計13件を除いた残りの97件が、江戸の町に発生した大火となりますので、市民がやけっぱちになるのも分かろうというものです。

樋口清之氏は、火事は江戸の華の語源を、大老酒井忠清の言にありとしています。

たび重なる大火に冠を曲げた大老は「かように頻繁に火事を起こすとは江戸のハジじゃぞ」と町人をたしなめたのですが、これを聞いた講釈師か狂歌師が、恥を華とすり替えたのが、「江戸の華」のいわれと言われています。



戻る