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東京消防庁ライブラリー消防雑学辞典

このページは、新 消防雑学事典 二訂版(平成13年2月28日(財)東京連合防火協会発行)を引用しています。
最新の情報ではありませんので、あらかじめご了承ください。


消防雑学事典
?三の酉の年は火災が多い?

mark 丙午(ひのえうま)や三の酉(とり)の年は火事が多いといわれていますが、その理由や根拠はどこにあるのでしょうか。

まず、丙午ですが、これは古代中国に生まれた自然哲学で、天地間万物の源は、木、火、土、金、水の様々な組み合わせで生ずると説く五行説や、幹枝(干支、わが国ではエトと音読している)の思想が大きな影響を与えているのです。
十干(じっかん)(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を甲と子、乙と丑のように順に組み合わせると60組できますが、丙午はその43番目に当たり、丙と午が共に五行の火に当たることから火災が多いとされているものです。

また、丙午山の雌馬は雄馬をかみ殺すという中国の俗信が、江戸時代の初期に日本に伝えられ、天和2(1682)年の八百屋お七の火事で、お七が丙午の生まれであったこともあって、女性の結婚に関する丙午迷信が根強くなったようです。

お七が誕生した寛文6(1666)年には、海の向こうのロンドンで、13,000余戸を焼き五日間燃え続けたロンドン大火がありましたが、これも丙午に関係するのでしょうか?

次の丙午は享保11(1726)年、天明6(1786)年、弘化3(1846)年、明治39(1906)年、昭和41(1966)年となりますが、火災が特に多いという事実を裏付けられる年ではなかったようです。

むしろ反対に、昭和41年は全国では、前年の火災件数が戦後最高の記録を残したのに対して、6,100件も大幅に減少しています。

    酉の市
酉の市 次は、三の酉です。
11月の酉の日を順に一の酉、二の酉、三の酉と呼んでいますが、酉の日は12日ごとにまわってきますから、11月の1日から6日の間に一の酉のある年には、必ず三の酉もあることになります。
この三の酉があるときに、どうして火事が多くなるといわれるのか、その確証は残念ながらないようです。

ただこれには、ひたむきな女性の心情が関係しているようです。

酉の市のはじまりは、平安時代にまでさかのぼります。

新羅三郎義光が奥州討伐のとき、武州葛西花又村(現東京都足立区花畑町)にある正覚寺に祀られる大鷲明神の本尊(1寸8分の大鳥に乗る妙見菩薩)を、お守りとして借り受け、戦勝帰還しました。
その後、本尊をねんごろに返納して、新たに別堂を建て大鷲明神として祀りました。

これが武門の守りとして武士の参詣するところとなり、やがては開運の神として信仰されるようになりました。
同じ本尊を持つ下谷の長国寺や千住の勝専寺も共ににぎわって、酉の日には市がたつようになりました。

明治元(1868)年には神仏判然令が布告され、それぞれの寺で大鷲明神は分離することになりましたが、下谷長国寺から独立した大鷲神社は、吉原遊廓のすぐそばであったことから大いににぎわい、11月の酉の大祭には吉原の縁起にちなんだオカメの熊手が売られるようになり、吉原の大門も四方を開けて手軽に入れるようになりました。

このころから、“火事が多い”説が出たのではないかと思われます。
というのは、お酉さまの参詣の帰りに、男性が吉原に寄ることが多く、留守をあずかる女性としては、何とかして亭主などを家に引きもどさなければなりません。

まして、3回もお酉さまがあったのではたまったものではありませんから、三の酉のあるときは「火事が多い」とか「吉原遊廓に異変が起こる」という俗信を作って、男性の足を引き止めようとしたのだろうと考えられます。

このことは、
「お多福に熊手の客がひっかかり」
「そのあした熊手のオカメしがみつき」
という川柳によってもうかがわれます。

実際に、三の酉のときに火事が増えたという記録もありませんし、丙午の年についても同じです。
余談になりますが、吉原の大火が発生したのは明治44(1911)年の4月9日でした。

美華登楼から出た火は南の烈風にあおられ、吉原遊廓全体はもとより、山谷から南千住にかけて延焼し、10時間余にわたって燃え続け、6,550戸を焼失しました。
もちろん、この年は丙午でも三の酉でもありませんでした。

明治時代の消防活動風景(福島星湖画)
明治時代の消防活動風景(福島星湖画)



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