このページは、新 消防雑学事典 二訂版(平成13年2月28日(財)東京連合防火協会発行)を引用しています。
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昭和7(1932)年12月16日、日本橋白木屋百貨店(元・東急日本橋店)は、歳末大売出しとクリスマスセールが重なり、店内は華やかな飾りつけがなされていました。 開店前の点検でクリスマスツリーの豆電球の故障を発見して修理しようとしたとき、誤って電線がソケットに触れたためスパークによる火花が飛び散り、それが着火して火災になりました。 白木屋の火災を伝える読売新聞号外
これが、昭和に入って初めての高層建築物の火災で、白木屋の火災といわれるものです。 日本橋消防署の望楼勤務員がこの火災を発見し、直ちに消防職員・消防組員799人、ポンプ車29台、はしご車3台、水管自動車(ホース運搬車)2台などが出場し、当時としては最大規模の消防力をもって、消火活動に当たりました。 この火災は、8階建てのビルの4階以上を約14,000平方メートル焼失し、5,009,000円(当時価)の損害に加えて、火災による死者が1人、墜落による死者が13人、傷者が67人という惨事となりました。 ところでこの火災は、高層建築物の火災という、新しい問題を消防当局に提起しましたが、一方では、日常生活での女性の下着着用の必要性等が、叫ばれることともなりました。 それは、上層階から綱にすがって脱出しようとしていた女性の何人かが、裾がめくれるのを押さえようとして綱から片手を離したため、体重を支えきれなくなって墜落死したことが契機となって、それまで日本の婦人が着けていなかった下ばきを、着用するようになったからです。 これ以前にも、関東大地震のときに、池や川にうちあげられたおびただしい女性の死体の姿などから、女性の下ばきの必要性が叫ばれましたが、実現しませんでした。 それが白木屋の火災を教訓として、東京朝日新聞が昭和8(1933)年5月7日の社説で「日本婦人はズロースなく門戸開放にすぎる」と論断したことなどもあって、洋装化がすすんできたのです。 余話になりますが、ズロースは英語のdrawersがなまったものです。これは14世紀末に、フランス宮廷婦人が用いたものがはじまりとされています。 しかし、一般に普及し出したのは18世紀末で、17世紀後半にはオランダで、ズロース着用を強制した記録さえあるようです。 燃える白木屋
「天災は忘れたころにやってくる」という、防災に関しての有名な警句を残している物理学者・俳人・随筆家の寺田寅彦氏が、白木屋火災があった翌年の昭和8(1933)年1月に、白木屋火災に関しての随筆「火事教育」を書いています。 内容としては、消防的にも多くの示唆を与えていますので、次にその一部を紹介します。 「旧臘押し詰まっての白木屋の火事は、日本の火災史にちょっと類例のない新記録を残した。 犠牲は大きかったがこの災厄が東京市民に与えた教訓も、またはなはだ貴重なものである。 しかしせっかくの教訓も肝心な市民の耳に入らず、また心にしみなければあれだけの犠牲は、全くなんの役にも立たずに煙になってしまったことになるであろう。・・・ 白木屋の火事の場合における消防当局の措置は、あの場合としては事情の許す限り範囲内で、最善を尽くされたもののように見える。 それが事件の直前にちょうどこの百貨店で、火災時の消防予行演習が行われていたためもあって、いっそうの効力を発揮したようであるが、あの際、もしも、あの建物の中で遭難した人らに、もう少し火災に関する一般的科学知識が普及しており、そうして避難方法に関する平素の訓練がもう少し行き届いていたならば、少なくとも死傷者の数を実際あったよりも著しく減ずることができたであろうという事は、誰しも異論のないことであろうと思われる。・・・ 火がおよそいかなる速度でいかなる方向に燃え広がる傾向があるか、煙がどういうぐあいに這って行くものか、火災がどのくらいの距離に迫れば危険であるが、木造とコンクリートとで燃え方がどうちがうか、そういう事に関する漠然たる観念でもよいから、一度確実に腹の底に落ちつけておけば、驚くには驚いても決して極度の狼狽から、知らず知らず取り返しのつかぬ自殺的行動に突進するようなことはなくてすむわけである。・・・」 |