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東京消防庁ライブラリー消防雑学辞典

このページは、新 消防雑学事典 二訂版(平成13年2月28日(財)東京連合防火協会発行)を引用しています。
最新の情報ではありませんので、あらかじめご了承ください。


消防雑学事典
?危険物安全週間とは

mark 消防法上の危険物とは、塩素酸塩類・黄リン・金属ナトリウム・石油類・セルロイド類・発煙硝酸などの、発火性又は引火性を有した物品を指しています。

東京の消防が危険物と関わりを持つようになったのは、明治の中ごろのことで、その根拠を見てみますと、明治17(1884)年6月30日に制定された『消防水防規則』に、「第4条 分署長(現在の消防署長)並ビニ分署詰司令官ハ、所轄内ノ道路橋梁及地理水利、危険物製造所、其ノ他火災ノ虞アル場所等ヲ詳知シ豫テ非常ノ手配ニ注意スベシ」と記されています。
これ以後、危険物に関しての規制は、明治24(1891)年4月20日に制定された、警視庁令第七号「石油精製場貯蔵場及運搬取締規則」などを、また、自治体消防制度となってからは、「危険物取締条例(昭和23年3月6日、条例第28号)」や、「危険物の規制に関する政令(昭和34年9月26日、政令第306号)」などを根拠法令として行われ、現在に至っています。

危険物火災の恐ろしさを世に知らしめたのは、昭和39(1964)年7月14日午後9時55分ころに発生した(株)宝組勝島倉庫爆発火災です。
この火災は、品川区勝島一丁目4番7号の11に所在する(株)宝組勝島倉庫の、103号倉庫近くの空地に野積みにしてあったドラム缶入りの硝化綿から出火し、爆発火災となって同地区内の倉庫および周辺空地、さらには道路を隔てた第5地区の空地に、無許可で貯蔵されていた硝化綿、アセトン、アルコール類などに次々と引火しました。

この第一次爆発火災が鎮圧される矢先の午後10時55分ころ、最初の爆発火災から30メートルほど離れた倉庫に貯蔵されていた、メチルエチルケトンパーオキサイド(商品名パーメックN)類を誘爆させた2回目の大爆発が発生し、夜空に100メートルを超える巨大な火柱が噴き上がり、原子爆弾を思わせるような不気味なキノコ雲が上昇していきました。
この爆発火災により、消防活動に従事していた消防職員18人、消防団員1人が一瞬にして生命を奪われ、また消防職員・団員など158人が重軽傷を負うという、わが国消防史上まれにみる大惨禍が発生しました。

危険物安全週間のパレード
危険物安全週間のパレード
本火災の直接の原因は、危険物の貯蔵違反によるもので、東京消防庁は爆発火災後直ちに、関係者などを東京地方検察庁に告発し、結審に至るまで12年の歳月を経て、昭和51(1976)年10月17日、最高裁判所の上告棄却の決定により、会社に対して5万円の罰金が、また関係者に対しては、執行猶予付の刑が科せられました。
今日、石油類をはじめとした危険物が、日常生活のあらゆる分野に浸透しており、社会生活の向上に大きく貢献していますが、ひとたびその取り扱いを誤ると、火災又は爆発などの災害を引き起こす、潜在的な危険を有しています。

これらのことから、危険物を取り扱っている事業所などに対して、危険物の自主保安管理の推進を呼びかけ、また、市民に対しては、危険物に関しての意識の高揚・啓発を図るとともに、市民生活の安全を確保することを目的として、平成2年に自治省消防庁(現総務省消防庁)によって、「危険物安全週間」が制定されました。

この危険物安全週間は、毎年6月の第2週の日曜日から土曜日までの一週間で、東京消防庁の管内においては、危険物を取り扱う事業所における自主点検、大学や研究所などにおける自主保安体制の確立及び防災教育、自衛消防組織による訓練、危険物保安監督者などに対する講習、保安対策の強化を主眼とした査察、方面消防訓練などを重点項目として実施しています。

ところで、東京では、「危険物安全週間」が定められる27年前の昭和38(1963)年6月20日に、危険物安全の日を定めています。
危険物安全の日を6月としたのは、かねてよりこの時期には、セルロイド類等の自然発火が多く、これらの火災の発生を防ぐために定めたものです。
危険物安全の日が6月20日となったのは、6月にはすでに、電波の日(6月1日)、計量記念日(6月7日)、時の記念日(6月10日)、高圧ガス危害予防週間(6月上旬)などが制定されており、これらのことなどを精査した結果、6月20日になったとされています。

危険物安全の日の制定に際して、「全国的なものとして実施しては」という意見もあったようですが、この時は、全国的な統一行事としては見合わされました。

制定2年後の昭和40(1965)年からは、危険物安全の日の意識をさらに高めるため、前記の(株)宝組勝島倉庫爆発火災が発生した7月14日に改め、危険物の安全管理の徹底と防火思想の普及に努めました。
危険物安全の日は、制定当時大きな成果を収めていましたが、昭和43(1968)年ごろからは、セルロイド製品に代わってプラスチック製品が現れ、セルロイド類の自然発火による火災件数は、年を追って減っていきました。

一方、東京では昭和45(1970)年3月1日、家庭や職場での火の元の総点検を実施して防火の関心を高め、されにこれを生活の中で習慣づけることにより、平常の火災はもとより、地震時にも対応できる都民の自主防災体制の確立を意図して、毎月1日を都民防火の日とすることとしました。
また、同じような時期に、国においても、毎年7月1日から7月7日までの間を「全国安全週間」と定めました。

以上のことから「危険物安全の日」を存続させることの意味が問われることとなり、以後、危険物の安全管理に関しての趣旨は、「火災予防運動」や「都民防火の日」の中で生かしていくこととして、昭和45年7月14日に実施した「危険物安全の日」を最後に、取り止められることになりました。



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