このページは、新 消防雑学事典 二訂版(平成13年2月28日(財)東京連合防火協会発行)を引用しています。
最新の情報ではありませんので、あらかじめご了承ください。
|
はしごは、ローマ帝国時代から高い城壁を突破するための兵器として使われてきましたが、はしごを車に積んで消防活動に利用するようになったのは、アメリカを例にとれば1815年からです。
そして、1860年ころからは、はしごを重ねて使うことによって、より高く伸ばすことに努力がはらわれました。もちろん、その伸ていは人力または馬の力によっていました。 その後も研究を重ねて、方向変換を容易にするターンテーブル付きのはしご車を初めて作ったのはドイツで、明治25(1892)年のことでした。 ドイツでの発展はめざましく、翌年には馬引きのタワー車が活躍をはじめ、明治37(1904)年には世界で初めての機械力で伸ていできるはしご車が完成しました。
輸入した救助はしご車の規格等の概要は、次のとおりです。 はしごは木と鉄の混合製の三連で、伸ていの長さは約18メートル、後車輪の間隔は約2.1メートル、車体の全長は3.3メートル、はしごを縮載した高さは約3.6メートルで、二頭の馬で引き、価格は運送費、海関税などを合わせて2,200円と相当高額なものでした。 また、その運用は、指揮者一人、隊員二人の計三人が当たっていました。 この救助はしご車は、明治36(1903)年12月10日午前4時35分、日本橋区坂本町四三番地、東京商業興信所の火災(火災規模、半焼2棟、300平方メートル焼損)で初めて使用されました。 救助はしご車の運用状況を当時の資料(大日本消防協会雑誌、明治37年5月発行)から引用すると、次のようです。 「東京商業興信所は三層の高楼なる上、ポンプを据附くべき附近の新場川岸は折柄水沸底にて、ポンプも其用を為さざるを以て現場の消防官は、直ちに警視庁(現在の東京消防庁本庁にあたる)へ向け、救助梯子車を使用せんことを請求したるに、同庁にても此際実地に使用せんとて、救助梯子車を前記現場に引出し、直立にては高きに失するにより、梯子を七分目に延長せしめ型の如く操縦したるに、非常に好結果を奏し、同6時15分鎮火するを得たる為、該梯子の効用著大なるを周知せしめたり」と記されています。
これらの活動実績などから、救助はしご車は大阪、神戸、名古屋などでも順次使用するようになりました。 日本人の手によって作られたはしご車としては、昭和5(1930)年に呉市の消防署へ配置されたものが第一号でした。 それは、フォードの車体に12メートルまで伸びる木製の四段はしごを取り付けた機械式のものでしたが、昭和20(1945)年7月に呉市が空襲を受けたときに惜しくも焼失してしまいました。 初期のはしご車は、15から24メートル級が主力をなしていましたが、昭和7(1932)年12月16日に発生した日本橋白木屋百貨店(元・東急日本橋店)の火災のあと、30メートル級のはしご車があればもっと多くの人が助かったのではないかという反省から、警視庁消防部は、国内のメーカーに鋼製のはしご車を製作するよう要望しました。 このようなことが契機となって昭和13(1938)年4月には、車体とぎ装がともに国産の鋼製四連機械駆動式の33メートル級はしご車が完成しました。 これにより地上10階までの救助活動には、このはしご車が活躍することになりました。 現代のはしご車 戦後、はしご車の製作に当たって技術の改良に主眼を置き、昭和30(1955)年に西ドイツ製のはしご車を輸入して技術の取得につとめた結果、昭和32(1957)年には国産初の油圧駆動式はしご車が完成し、昭和36(1961)年には昇降装置(リフター)付きの30メートル級はしご車が東京に登場しました。 建物が高層化するにつれて、それ以上のはしごの長さが要求されるようになり、昭和45(1970)年には国産初の37メートル級はしご車が大阪市消防局に登場しました。 はしごの部分は特殊鋼六連式、全油圧式、それにリフター付きという最新式のものでした。 はしご車と同じような車両に、直伸式および屈折式空中作業車があります。 わが国では昭和35(1960)年ごろから実用化されましたが、原形は米国のシカゴ市で消防用に開発されたものです。 屈折式のそれは、車体の後部に全旋回のターンテーブルを付け、その上に起伏する二節ないし三節のアームを載せて伸ばし、先端のバスケットに人を乗せて、それを上下させながら消火活動や救助活動を行うものです。 この他、先端に人は乗りませんが、大量放水や高所放水を目的として屈折式放水塔車があります。 建物の内部へ注水ができるようにするため、放水塔の先端に破壊装置が備えられているものです。 |