荒川の災害史
2024年09月25日 更新
日暮里大火



■日暮里大火とは?
1963年(昭和38年)4月2日、14時56分頃に日暮里2丁目(現在の東日暮里3丁目23番付近で発生し、5098平方メートルが延焼した火災です。
■出火当時の気象は?
出火当時、北の風が10.5メートルと非常に強く湿度も17パーセントで火災警報が発令していました。
そのような気象状況から火の粉が飛び延焼拡大しました。
■出火原因は?
マッチでタバコに火をつけ、燃えているマッチ棒を水の入ったバケツと勘違いして、接着剤の入った缶に投げ捨てたために出火しました。
■被害状況は?
全焼36棟、5098平方メートル、死者は0人、傷者は約220人でした。火災発生が昼間だったため、火災の規模は大きかったが死者はでませんでした。
1963年(昭和38年)4月2日、14時56分頃に日暮里2丁目(現在の東日暮里3丁目23番付近で発生し、5098平方メートルが延焼した火災です。
■出火当時の気象は?
出火当時、北の風が10.5メートルと非常に強く湿度も17パーセントで火災警報が発令していました。
そのような気象状況から火の粉が飛び延焼拡大しました。
■出火原因は?
マッチでタバコに火をつけ、燃えているマッチ棒を水の入ったバケツと勘違いして、接着剤の入った缶に投げ捨てたために出火しました。
■被害状況は?
全焼36棟、5098平方メートル、死者は0人、傷者は約220人でした。火災発生が昼間だったため、火災の規模は大きかったが死者はでませんでした。
三河島列車事故



■三河島列車事故とは
昭和37年5月3日 21時37分頃に国鉄(現JR)常磐線三河島駅付近で起きた列車脱線多重衝突事故です。
■事故概要
常磐線・三河島-南千住駅間の貨物線を走っていた下り蒸気機関車の機関車が赤信号を誤認し前部の機関車が下り線路内に脱線し傾いて停止した。その2分前の9時35分、三河島駅を1分遅れで発車した上野発取手行きの下り電車が、脱線した下り電車に衝突し、上り線路内に脱線した。
このため、乗務員らは乗客に三河島駅へ歩いて引き返すよう誘導したが、一部の乗客が線路内を歩き始めた。 そこへ、9時40分、南千住駅を発車した上野行き上り電車が脱線した下り電車に衝突、轟音とともに火花を散らして脱線。 1両目は車体だけを残して大破、2、3、4両目は5メートル下に落ち民家に突っ込んだ。下り電車の2、3両目も脱線し、大惨事となった。
この事故に際し、荒川消防署や近隣の消防署から多くの救助隊や救急隊が出場し活動にあたりました。
現在、駅近くの浄正寺には三河島列車事故の慰霊観音像が建立されています。
また、この事故による荒川消防署の活動功労に対し、当時の内閣総理大臣である池田勇人首相から表彰されました。
昭和37年5月3日 21時37分頃に国鉄(現JR)常磐線三河島駅付近で起きた列車脱線多重衝突事故です。
■事故概要
常磐線・三河島-南千住駅間の貨物線を走っていた下り蒸気機関車の機関車が赤信号を誤認し前部の機関車が下り線路内に脱線し傾いて停止した。その2分前の9時35分、三河島駅を1分遅れで発車した上野発取手行きの下り電車が、脱線した下り電車に衝突し、上り線路内に脱線した。
このため、乗務員らは乗客に三河島駅へ歩いて引き返すよう誘導したが、一部の乗客が線路内を歩き始めた。 そこへ、9時40分、南千住駅を発車した上野行き上り電車が脱線した下り電車に衝突、轟音とともに火花を散らして脱線。 1両目は車体だけを残して大破、2、3、4両目は5メートル下に落ち民家に突っ込んだ。下り電車の2、3両目も脱線し、大惨事となった。
この事故に際し、荒川消防署や近隣の消防署から多くの救助隊や救急隊が出場し活動にあたりました。
現在、駅近くの浄正寺には三河島列車事故の慰霊観音像が建立されています。
また、この事故による荒川消防署の活動功労に対し、当時の内閣総理大臣である池田勇人首相から表彰されました。
問合せ先
- 荒川消防署
- 予防課
- 防火管理係
- 03-3806-0119 内線535