本郷消防署の沿革

2024年12月30日 更新

江戸時代

消防制度の創設以前

 日本の歴史に、火消制度が登場するのは、江戸時代の初期から中期にかけてである。
 それより以前、戦国乱世の社会では、動乱と戦火のため、人々が防火に意を用いる思想の芽生えは困難であった。戦国乱世の状況下にあって、火事を積極的に消し止めようというような組織的な制度は皆無に等しかったといえる。大火に襲われながら火消の制度ができなかったのか。その答えは明白であり、それは、権力の座にある者は、一門の繁栄にのみ意を用いて、都市の防火に策を施す余裕がなく、また領主は、城下の防火に意を用いるよりも、他国との闘争に力を入れていたからであった。領主のための城下町であり、防火対策に見るものがなかったのも当然であったといえる。
 織田から豊臣と政権が変わり、関が原の役で勝利を収めた徳川家康は、江戸に幕府を開き、郷里の三河やその他の地方から多数の住民を招致して、江戸の町造りに着手した。
 まもなく、将軍職は、秀忠に引継がれ、秀忠の死去で三代家光が将軍となり、ようやく徳川幕府の基盤が確立された。しかし、建設の音高い江戸の町にとって最大の脅威は大火で、創設間もない徳川幕府にとって江戸の大火は政権の破綻になりかねない重要問題であった。この事を重視した幕閣は諸大名に火消役を命じ、享保年間には町火消などの制度を次々と創設して大火と闘う態勢を築き上げていったのである。

江戸の火災第1号

 徳川家康が天正18年(1590年)8月、江戸に乗り込んできた翌月の3日、麴町にあった増上寺が炎上したのが徳川下のお江戸で発生した火災の1号である。

日本災異誌に掲載されている最初の火災

 日本史が始まってからの、風雨・津波・火災などの天災地変を網羅した、小鹿島果氏編纂の「日本災異誌」によると、火災の第1号は、明天皇13年(542年)10月13日「13日、據一代要記。皇年代略記作内裏天火」(日本書記)大殿災と記されている。

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