本郷消防署の沿革

2024年12月30日 更新

消防制度の組織整備

 「火消」という制度が、歴史上初めて登場したのは、慶長8年(1603年)江戸開府から26年を経た寛永6年(1629年)三代将軍家光の時代であったといわれている。
 江戸の町は開府以来、武家屋敷や町家の火事が頻発しこれが大火になることを憂慮した幕府は、ようやく消防に関する「奉書」を出し、これによって非常招集された小大名のことを「奉書火消」と称し、わが国における火消制度の始まりといわれている。しかし、この奉書火消は大名が、家臣を引率して火事場に赴くというもので城内、武家屋敷等幕府の重要箇所に限られ、江戸の町にはあまり恩恵のあるものではなかった。
 消防制度が組織化されたのは、資料不足により明確ではないが江戸時代に設けられた武家火消(大名火消、定火消)と町火消(いろは48組、本所・深川16組)がその始まりとみられており、この二つの組織が火事と闘う火消部隊として幕末期まで活躍してきた。
奉書火消
 組織的なものではなく、火災の都度、大名が奉書(老中の出す将軍の命令書)によって消防に従事した。

大名火消

 大名火消は、江戸幕府枢要地の消防に従事させるために設けられた制度で、武家火消の一つである。その起源は、寛永6年(1623年)5月、幕府から参勤交代のため封地へ帰る大名に代わって、10数家の大名が火の番を命ぜられ、それぞれ1万石につき,30人の割合で消防に従事する者を出すこととなったのが始まりと言われている。
 大名火消は次で述べる定火消と異なり。幕府からの扶持はなく義務的なもので、徳川幕府執政の特徴である外様大名(関が原の合戦以後に徳川家に仕えた大名)に対する課役の一つであった。

大名火消の組織

1万石以上
大名火消 ― 騎馬 ― 足軽 ― 中間人足
      (3~4騎)  (20人)  (30人)
5万石以上
大名火消 ― 騎馬 ― 足軽 ― 中間人足
        (7騎)  (60人)   (100人)
10万石以上
大名火消 ― 騎馬 ― 足軽 ― 中間人足
         (10騎)  (80人) (140~150人)
20万石以上
大名火消 ― 騎馬 ― 足軽 ― 中間人足
      (15~20騎) (120~130人) (250~300人)

各大名火消の出場区域

 大名火消には、所々火消、方角火消、増火消、各自火消などと呼ばれるものがあり、出場区域は次のとおりであった。

所々火消

 所々火消は、享保7年(1722年)に設けられ、10万石以上の譜代大名に(関が原の合戦以前から徳川家に仕えていた家臣で大名になったもの。)11ヶ所の大名火場所を定めて常時守備させるもので次の場所が指定された。

城内:大手門・桜田門・本丸と二の丸・紅葉山・吹上
城外:湯島聖堂・上野寛永寺・増上寺・浅草米蔵・本所米蔵・猿江材木蔵

方角火消

 方角火消は、正徳2年(1712年)に3万石以上、10万石以下の譜代大名15家に命じた火消役で江戸を5方面に分けて担当の大名を定めて,その方面に火事があると「奉書」を持たずに出場するものとされ、その指揮は老中の命により「御使番」がとると定められた。
 正徳6年〔享保元年〕(1716年)には「大手組」と「桜田組」とにわけられ、方角火消は、江戸城内の火事の場合は、伝令を待たずに直ちに火作業に従事したがその他の場合は、火事でも直ちに出場せず、大手門か桜田門の前にまず出て、御使番の伝令を待ってはじめて火事場に出動していった。
御使番
 火災発生とともに状況偵察に飛び出し、老中、若年寄の命令を各火消しに伝える役

増火消

 大火の際にのみ特別に大名を火消に命じ、編成させて、廟、二の丸、米蔵の警戒にあたった。

各自火消

 各自火消は,享保2年(1717年)大名の私設火消として許可されたもので、幕府が設けた公設の消防とは異なる。別名を「お抱え火消」と言い、自家の屋敷、親類の屋敷、自家の寺を守るもので、その大名の高によって出場区域を八丁以内、五丁以内、三丁以内と定められていたことから「八丁火消」、「五丁火消」、「三丁火消」とも呼ばれた。
 お抱え火消で有名なのが加賀薦である。
 加賀は、加賀百万石の抱え火消で本郷の上屋敷(本邸)とその八丁四方の火災に備え、幕府の学問所湯島聖堂の火消も担当した。威勢がよくて、喧嘩鳶の呼び名がある位で、加賀鳶と定火消との喧嘩は「盲長屋梅加賀鳶」の芝居にもなった。

問合せ先

  • 予防課
  • 防火管理係
  • 広報担当