定火消

2024年12月30日 更新

 万治元年(1658年)幕府直属の常備の火消部隊として、4千石以上の旗本四家に火消役を命じた。この火消役が「定火消」と称され、次の4名が最初に選ばれた。

〇 近藤彦九郎用将
〇 内藤甚之丞正吉
〇 町野助右衛門幸昌
〇 秋山重右衛門正房

この4名の旗本に飯田橋、左内坂、お茶の水、麹町に火消屋敷が与えられ、各組に与力6騎、同心30人、臥煙といわれる火消人足およそ100人が常駐することとなり、初めて火消の屯所(現在の消防署のようなもの)が作られた。
 その後、幾多の改廃〔元禄8年(1695年)には15組で定員1,920人〕を経て宝永年(1704年)には10組・定員1,280人となった。このことから定火消を別名、10人屋敷、10人火消と呼んでいた。
 屋敷の玄関敷台右脇に定紋の銀箔地の纏が飾ってあり、馬簾がついていないのが特徴で、門には、夜急いで出場の時、つまづかないよう敷居がないものとされた。また出場は厳しく制限され、幕府の要地か、武家屋敷の19ヶ所に制限され、これを中心に8丁(概ね1km弱)以内と限られていた。
 定火消は、明治維新の改革によって、明治元年5月19日、火災防御隊という名称に改められ、兵部省に属して皇城の消防にあたることとなったが、明治2年7月廃止された。
臥煙(かえん)
 臥煙は火消人夫のことで「火焰」とも書き、文字通り煙に臥せながら実際に消火にあたる火消衆である。恐ろしく元気のいい若達ばかりで向こう見ずで気が短く・おっちょこちょいで気風(きっぷ)がよく、度胸もよく、全身入れ墨の素っ裸で火の中へ飛び込んでいったといわれる。夏でも冬でも法被(はっぴ)一枚で、火事があればわざわざもろ肌ぬいで法被を腰に巻きつけ、向う鉢巻きに白足袋で飛び出していったという。
纏(まとい)
 江戸時代においては、火事といえば纏であり、纏のもとに総力を結集して消火作業を行い、纏が火を消したとまでいわれ、纏は江戸消防のシンボルであった。纏の始まりは、群雄割拠の戦国時代に、戦場において敵味方の目印として、将師が目標となるものを馬側立て、これを的率(まとい)と称していたものを、武田家が纏としたという説がある。また、「俚言集覧」によると、将軍の馬印を纏というとの記述もある。火災現場において初めて纏を用いたのは大名火で、当時は幟形式のものであった。今日みられるような纏の形式になったのは、享保15年(1730年)である。なお、町火消は初めのうちは、武家方の屋根に纏を掲げることは禁じられていた。

火消屋敷の場所

お茶の水  湯島聖堂西端  赤坂御門外   伝馬町西側
八代洲河岸 馬場先門外北角  飯田町   もちの木坂上北側
赤坂溜池   靈南坂西側   小川町   ーツ橋通り錦町東側
半蔵門外  半蔵門南堀端  四谷御門外   表六番町西側
駿河台   ニコライ堂付近 市ヶ谷左内坂 坂下堀端通り北側

定火消の組織

火消役 ― 与力 ― 同心 ― 臥煙

与力
 使番 1人
 纏番 (正副1人)
 梯番 1人
 小纏 1人
 水番 1人

同心
 上番 10人
 下番 5人
 水番 10人
 残番 5人

臥煙
 纏番   大 8人
      小 4人
 玄蕃桶持 大 4人
      小 4人
 梯番   16人
 龍吐水持 8人
 鳶口持  10人
 籠長持  2人
 用箱持  1人
 部屋頭  3人
 割役   2人
 他に中間 50人

問合せ先

  • 予防課
  • 防火管理係
  • 広報担当