防火対策の歴史

2024年12月30日 更新

 徳川幕府が、防火建築の命令を出したのは、慶長6年(1601年)大火で草葺を喜にするよう命じたことが第一号であるといわれているが、本格的に防火都市造りに着手したのは「明暦の大火」の後で、老中保科正之の主唱で大目付北条安房守、大番頭渡邊右衛門が担当した。

①御三家、大名屋敷の強制立退き
②神社仏閣を江戸中心部から浅草、駒込、三田方面に強制移転
③立退後の空地に火除地設置(火除地の初め)
④道路を5間(約10m)以上とし日本橋、本町通りを7間(約13m)に拡張

 しかし、大火は依然として頻繁に発生し、北西風が大火につながることから、これを直角に断ち切るため、日本橋から飯田町の間に高さ3間(約5m)、長さ9丁(約10km)の石堤の「防火堤」を築いた。この他、江戸市中の各所に広小路を設け、筋橋やお茶の水に「火除明地」が建設された。
 建築制限の法令を見ると、元禄12年(1699年)に「武家屋敷建築規則」が同16年には町家に「普請防火規則」が制定され、建築物の防火規制を強化した。

防火建築

 防火建築の町触は、享保5年(1720年)8代将軍吉宗の時代に出され、その推進は南町奉行、大岡越前守と北町奉行,諏訪美濃守が当たった。それまで、町家では禁止されていた瓦葺,土蔵造り、塗屋造り(外側を土で塗る)の建築を許可しこれを奨励した。
 そして、公役銀(町人から徴収した税)の5か年間免除や10か年賦拝借金(現在のローン)などの助成を行って、土蔵造り、塗屋造りや蛎殻葺(かきがらで屋根を拭ふく)を大いに奨励した。このようにして江戸の中心部を特色づける町並が形成されていった。
 本郷・湯島地区にこの町触が適用されたのは10年後の享保15年3月(1730年)であった。池の端七軒町からの出火で湯島・本郷地区が焼けたのでこの町触が適用された。
 このようにして、塗屋土蔵瓦葺の建物が、日本橋から中山道の大江戸の町並の特色となり、その町並の姿は本郷三丁目の「かねやす」の店で途切れた。それより北側の赤門寄りは、町触れの適用外で、従来通りの板葺きや萱葺の屋根などは、おかまいなしであった。

庶民の生活の知恵と自衛手段

車長持

 車長持は、長さ4尺6寸(約1.5m)、幅2尺2寸(約70cm)、高さ32寸(約1.1m)の長持に、直径1(約30cm)の車をつけたもので、材でできている。平素から家財を入れて置いて、いざ火事となるとこれを押して避難した。
 道幅が狭い当時は、車長持による避難は思うように進まず、火勢が車長持と人々を一瞬にして焼払い惨事が発生したため、車長持や大八車等による避難を禁ずるお触れを出したが、守られなかった。

火たたき・防火用水

 日頃から、屋根の上に防火用水、火たたき等の火消道具を備えていた。
 火たたきは水に浸し、火の粉が自家にかかった際に叩いて消すものであり、用水桶、天水桶、鎮火水と名称はいろいろあるが、庶民は平素から水を用意して、玄関先や、屋根上に設置した。

火の見番

風が強い日には、火の見にあがって見張った。

火の番と夜番

町の隅々まで、「火の用心」をふれてまわった。
火の用心の言葉の起こり
 「火の用心」という言葉の起こりは、天正12年(1584年)家康と秀吉が小牧山で戦った際、家康の部下であった本多作左衛門という武士が国元の妻に送った「一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥やせ」という名文の便りからだという。

穴藏(地下室)

 家財道具や商品を入れて焼失を防いだ。
 鷹匠同心屋敷の遺構(動坂遺跡)から8基の地下室が確認され、真砂遺跡の大名屋敷からは、33基の地下室が発見されている。

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