明治時代初期(明治元年~明治15年)
2024年12月30日 更新
慶応3年(1868年)10月4日
15代将軍徳川慶喜の大政奉還により、江戸暮府は幕を閉じ、新政府が生まれ、数多くの制度等の改革が行われた。消防制度の改革もその例にもれず、長い歴史をもった江戸の消防制度に対して改革が行われた。明治13年消防組員とは別に消防職員を採用するため「消火卒採用規則」が制定され。これによって採用した職員をもって、同年6月1日、東京消防庁の前身である消防本部が誕生した。
明治初期の消防は、今日の自衛消防的要素をもった江戸消防とは異なった、新たな消防制度(公設の消防組織)が誕生するための胎動期であったといえる。
15代将軍徳川慶喜の大政奉還により、江戸暮府は幕を閉じ、新政府が生まれ、数多くの制度等の改革が行われた。消防制度の改革もその例にもれず、長い歴史をもった江戸の消防制度に対して改革が行われた。明治13年消防組員とは別に消防職員を採用するため「消火卒採用規則」が制定され。これによって採用した職員をもって、同年6月1日、東京消防庁の前身である消防本部が誕生した。
明治初期の消防は、今日の自衛消防的要素をもった江戸消防とは異なった、新たな消防制度(公設の消防組織)が誕生するための胎動期であったといえる。
火災防御隊の設置
明治元年(1868年)5月19日
奉書火に始まる武家火消が廃止され、火災防御隊が定火中の役員等により編成され、軍務官(後の兵部省)に属することとなった。
また、日時を同じくして、町火消が、江戸町奉行所に変わって設けられた市政裁判所に属することとなったが、明治年7月17日東京府の設置に伴い東京府に属することとなった。
奉書火に始まる武家火消が廃止され、火災防御隊が定火中の役員等により編成され、軍務官(後の兵部省)に属することとなった。
また、日時を同じくして、町火消が、江戸町奉行所に変わって設けられた市政裁判所に属することとなったが、明治年7月17日東京府の設置に伴い東京府に属することとなった。
消防組の編成
明治5年(1872年)4月
いろは48組および本所・深川の16組を総称した町火消の名称を消防組と改め、新たに消防組を39組編成して、これを6大区に配置して〇区〇番組と称するようになった。後に本郷消防署の前身である、消防第四分署の管轄区域となった第四大区には、1番組から5番組が編成された。
江戸末期10,359人と数多くいた町火消も、消防組と改称された時は、往時の約4分の1の2,558人に減った。明治7年(1874年)12月、消防組の詰所である消防屯所を、東京市内25ヶ所に設け、交代で勤務することとし、11月から4月までの間は夜間も交代で当直体制をとることとした。これが交代制勤務制度の始まりで、1屯所の勤務員は、消防組2組から35人,ポンプ組1組から20人の計55人が勤務した。このとき設けた消防屯所制度が,後の消防分遣所、消防分署制度へと発展していったのである。
いろは48組および本所・深川の16組を総称した町火消の名称を消防組と改め、新たに消防組を39組編成して、これを6大区に配置して〇区〇番組と称するようになった。後に本郷消防署の前身である、消防第四分署の管轄区域となった第四大区には、1番組から5番組が編成された。
江戸末期10,359人と数多くいた町火消も、消防組と改称された時は、往時の約4分の1の2,558人に減った。明治7年(1874年)12月、消防組の詰所である消防屯所を、東京市内25ヶ所に設け、交代で勤務することとし、11月から4月までの間は夜間も交代で当直体制をとることとした。これが交代制勤務制度の始まりで、1屯所の勤務員は、消防組2組から35人,ポンプ組1組から20人の計55人が勤務した。このとき設けた消防屯所制度が,後の消防分遣所、消防分署制度へと発展していったのである。
第四大区の消防組の編成
1番組(た組)
2番組(な組)
3番組(れ・そ・つ・ね組)
4番組(他の組を割って設置)
5番組(他の組を割って設置)
2番組(な組)
3番組(れ・そ・つ・ね組)
4番組(他の組を割って設置)
5番組(他の組を割って設置)
消防事務の定着
明治7年1月15日(1874年)
東京警視庁が設置され、内務省警保寮に属していた消防事務は同年1月27日、東京視庁のもとに設けられた安寧課消防掛に属することとなり、帰属が不安定であった消防事務は定着をみて、消防組員は警察署長等指揮のもとに活動することとなった。
東京警視庁が設置され、内務省警保寮に属していた消防事務は同年1月27日、東京視庁のもとに設けられた安寧課消防掛に属することとなり、帰属が不安定であった消防事務は定着をみて、消防組員は警察署長等指揮のもとに活動することとなった。
消防章程の制定
明治7年(1871年)1月28日
消防組員に対して、旧来の鳶人足という古い思想を打破するとともに、規律をただし、進退賞罰を明らかにし、服務の心得を説き、消防人としてのあり方を示した消防程を制定した。
消防章程は、「第1章 消防規則」「第2章 消防組役割」「第3章 ポンプ組役割」「第4章 消防組頭以下心得」の4章32条からなっている。
消防組員に対して、旧来の鳶人足という古い思想を打破するとともに、規律をただし、進退賞罰を明らかにし、服務の心得を説き、消防人としてのあり方を示した消防程を制定した。
消防章程は、「第1章 消防規則」「第2章 消防組役割」「第3章 ポンプ組役割」「第4章 消防組頭以下心得」の4章32条からなっている。
消防本部の創設
明治13年(1880年)6月1日
内務省警視局のもとに消防本部が設けられ、明治初期にその帰属が不安定であった消防事務は、消防本部の専管事務となり、ここに初めて公設消防が誕生した。この時創設された消防本部が東京消防庁の前身である。
また、消防本部の設置に伴い、従来警察分署に属していた消防組に関する事項も、消防本部に属することとなった。
内務省警視局のもとに消防本部が設けられ、明治初期にその帰属が不安定であった消防事務は、消防本部の専管事務となり、ここに初めて公設消防が誕生した。この時創設された消防本部が東京消防庁の前身である。
また、消防本部の設置に伴い、従来警察分署に属していた消防組に関する事項も、消防本部に属することとなった。
消防本部の改称
明治14年(1881年)1月14日
警視庁が再設置されたことに伴い、警察,消防の事務は一切警視庁に移管され。消防本部も消防本署と改称された。ここから、昭和23年3月に自治体消防としての東京消防本部が誕生するまでの70年間にわたり、消防事務は警視庁に属した。
警視庁が再設置されたことに伴い、警察,消防の事務は一切警視庁に移管され。消防本部も消防本署と改称された。ここから、昭和23年3月に自治体消防としての東京消防本部が誕生するまでの70年間にわたり、消防事務は警視庁に属した。
消防分署の設置
明治14年(1881年)5月31日
消防分署を6署設け、翌6月1日から開署することが決議された。この時、設けられた消防分署が、現在の消防署の前身である。
消防分署を6署設け、翌6月1日から開署することが決議された。この時、設けられた消防分署が、現在の消防署の前身である。
消防第四分署(本郷消防署)の誕生
明治14年6月1日(1881年)
警視庁消防本署の下に、消防組を指揮監するため、第一から第六までの消防分署が設置された。その第四分署が本郷消防署の前身となったもので、本郷区森川町2番地(現在の文京区本郷七丁目三番、東京大学工学部の位置)に誕生した。
消防第四分署の管轄区域は、当時の本郷区、小石川区、さらに下谷区のうち池ノ端、仲町ほか2か町、神田区のうち三崎町ほか24か町と広大な地域を受け持った。
開設当時における消防官の配置は、分署長大司令1人,中司令1人,小司令1人の計5人であった。明治18年(1885年)7月3日には警視庁管制が改正されて、司令の大中小が廃止となり消防司令と消防司令補の階級が設けられた。
なお、同時に開設された消防第一分署は現在の日本橋消防署、第二分署は芝消防署、第三分署は麴町消防署、第五分署は上野消防署、第六分署は深川消防署のそれぞれ前身となった。
警視庁消防本署の下に、消防組を指揮監するため、第一から第六までの消防分署が設置された。その第四分署が本郷消防署の前身となったもので、本郷区森川町2番地(現在の文京区本郷七丁目三番、東京大学工学部の位置)に誕生した。
消防第四分署の管轄区域は、当時の本郷区、小石川区、さらに下谷区のうち池ノ端、仲町ほか2か町、神田区のうち三崎町ほか24か町と広大な地域を受け持った。
開設当時における消防官の配置は、分署長大司令1人,中司令1人,小司令1人の計5人であった。明治18年(1885年)7月3日には警視庁管制が改正されて、司令の大中小が廃止となり消防司令と消防司令補の階級が設けられた。
なお、同時に開設された消防第一分署は現在の日本橋消防署、第二分署は芝消防署、第三分署は麴町消防署、第五分署は上野消防署、第六分署は深川消防署のそれぞれ前身となった。
消防第四分署の移転
明治15年(1882年)12月28日
消防第四分署は、明治10年に創設された東京大学(明治19年に帝国大学となる。)の南方、本郷区元富士3番地(文京区本郷七丁目1番11号本郷消防署の現在地)に移転した。
消防第四分署は、明治10年に創設された東京大学(明治19年に帝国大学となる。)の南方、本郷区元富士3番地(文京区本郷七丁目1番11号本郷消防署の現在地)に移転した。
問合せ先
- 予防課
- 防火管理係
- 広報担当