明治中期(明治16年~明治30年)
2024年12月30日 更新
東京府下の火災は、消防本部ならびに消防分署設置以降も増加の傾向にあったため、消防本署はこれに対処して、明治17年6月30日「消防水防規則」を制定するとともに、国産の腕用ポンプを製作し、また、消防本部設置後第1号の蒸気ポンプを輸入するなど、消防組織、消防器械の整備強化がはかられた。なお、国産の腕用ポンプの量産に伴い、江戸時代から使用してきた龍吐水が同年末に廃止された。
出火場応援心得の制定
明治24年4月(1891年)4月
現在の出場制度の前身ともいえる「出火場応援心得」が制定された。これによると、
①第一応援とは,火災発生地を管轄する消防分署に属する消防組および派出所並びに消防分遣所詰めの組員のみが出場する。
②第二応援とは,消防署長(後の消防部長)の命により出場する。
③第三応援とは、非番員を招集して出場するもので、出火出場後の管内警備のため、消防組1組を消防分署に残留させた。
また、市部隣接500m以内の郡部の火災に対して、臨機応援出場するものと規定されている。明治時代の火災防法は、次のようであった。
現在の出場制度の前身ともいえる「出火場応援心得」が制定された。これによると、
①第一応援とは,火災発生地を管轄する消防分署に属する消防組および派出所並びに消防分遣所詰めの組員のみが出場する。
②第二応援とは,消防署長(後の消防部長)の命により出場する。
③第三応援とは、非番員を招集して出場するもので、出火出場後の管内警備のため、消防組1組を消防分署に残留させた。
また、市部隣接500m以内の郡部の火災に対して、臨機応援出場するものと規定されている。明治時代の火災防法は、次のようであった。
明治時代の火災防御法(原文)
出場員の火掛部署は、火点を囲みて防御位置を予定し、先ず第一着の消防員若しくは派出所当直員は火点に侵入し、順次後者の部隊は火点の包囲に努め防御に従事すべく、而して火勢により消防司令長は伝令使をして、応援部隊に部署の変更を命ずるを得、其所轄内に於ける出火の際の予定の出動位置として左(下)の如く規定せり。
第一分署(日本橋消防署)管内火災の時は其の所轄内各消防組は東南の間。
第二分署(芝消防署)管内に於いては同じく東南の間。第三分署(麴町消防署)は、西方、第四分署(本郷消防署)は北方、第五分署(上野消防署)は同じく北方、第六分署(深川消防署)は東方より主として消防に従事す。但烈風其の他火災場の状況により迅速に変更する事あるべきは勿論なり。
第一分署(日本橋消防署)管内火災の時は其の所轄内各消防組は東南の間。
第二分署(芝消防署)管内に於いては同じく東南の間。第三分署(麴町消防署)は、西方、第四分署(本郷消防署)は北方、第五分署(上野消防署)は同じく北方、第六分署(深川消防署)は東方より主として消防に従事す。但烈風其の他火災場の状況により迅速に変更する事あるべきは勿論なり。
消防本署の改称
明治24年(1891年)4月1日
警視庁の組織、機構の改革に伴い、警視庁官制が改正され、消防本署が消防署と改称された。
警視庁の組織、機構の改革に伴い、警視庁官制が改正され、消防本署が消防署と改称された。
問合せ先
- 予防課
- 防火管理係
- 広報担当