大正時代

2024年12月30日 更新

 大正時代は、いわゆる「大正デモクラシー」といわれた時代であり、政治的、文化的にも一連の民主的改革要求運動が活発に展開された時代であった。こうした時代的な風潮は消防の世界にも影響を与え、東京においては、消防職員の身分制度、待遇改善が強く推進されたことは、その後のポンプ自動車の採用や関東大震災後の消防機械の増強等と同様にこの時代の特筆すべきことの一つであった。

大塚出張所の開設

 大正2年(1914年)9月18日
 第四消防署大塚出張所(現在の小石川消防署の前身)が石川区大塚仲町15番地に開設された。
 なお、万世橋出張所は第一消防署(現在の日本橋消防署の前身)に移管した。

掃除町出張所の開設

 大正3年(1914年)3月28日
 第四消防署掃除町出張所が、小石川区掃除町6番地に開設された。

茎萊町出張所の移転改称

 大正3年(1914年)4月30日
 茎萊町出張所は、本郷区駒込吉祥寺町27番地(現在の文京区本駒込三丁目20番)に移転し、駒込出張所と改称された。

水道町派出所の開設

 大正12年(1923年)4月6日
 第四消防署水道町派出所(現在の小石川消防署老松出張所の前身)が小石川区水道町22番地に開設された。

小川町出張所の開設

 大正13年(1924年)3月24日
 第四消防署小川町出張所(現在の神田消防署駿河台出張所の前身)が、神田区小川町 19番地に開設された。

出張所の改称

 大正13年(1924年)10月1日
 大塚出張所が大塚分署に、小川町出張所が駿河台出張所に、掃除町出張所が白山出張所に、水道町派出所が水道町出張所にそれぞれ改称された。

火災専用電話の設置

 木と紙でつくられている当時の日本の家屋は、通常の場合、出火後5分以上を経過すると延流が拡大して、大火となる危険があるため、出火に際して最も重要なことは、出火の報知が敏速に消防署等に通報されることにあり、このことは当時も今も変らない。
 このため大正5年(1916年)3月ごろから、出火報受信用の火災専用電話の架設について、消防機関と通信省(東部通信局長)の間で協議を重ね、翌6年4月1日(1917年)火災専用電話が設置された。
この火災専用電話は、消防部、消防署、消防出張所に公衆電話に接続した火災報知専用の電話を設備したもので、電話局の交換手に「火事」と告げると、最優先の扱いによって火点近くの消防署所等に接続され、出火の場所を知らせるという仕組みのものであり、第四消防署は、小石川電話局に接続されていた。
 通話は、有料が建前であったが、大正8年(1919年)4月1日から無料となった。

関東大震災後の組織制度の整備拡充

 史上最大の惨禍をもたらした関東大震災後、東京は急速に復興事業が進展し、特に鉄筋コンクリート建築が盛況を呈するに至り、急激に都市の様相が変わりつつあった。
 このような社会情勢の中にあって、消防機関も関東大農災の教訓を踏まえて消防組織を編成し、これに対応することとなった。第一消防署から第六消防署まで6か所あった消防署が一挙に13か所増設され、合計19消防署に増強された。また、火災等警防事務については第一から第六までの方面制が施行されて方面警防隊長がおかれ,災害現場活動の敏速統制が図られることになった。

消防機械器具の増強

 未曾有の関東大震災により焼損した消防機械器具(消防ポンプ車A型4台、消防ポンプ車C型1台、水管自動車3台、梯子自動車1台など)を補充強化するため、震災後まもなくアメリカのラフラン社などに消防車両を発注し、大正13年1月(1924年)、から順次輸入し同年5月には各消防署に配置、災前に比べ消防力が格段に充実した。

第四消防署を本郷消防署に改称

 大正15年(1926年)7月1日
 警視庁官制により、第四消防署は本郷消防署と改称されて第四方面に属することとなった。
 ここに本郷消防署が誕生したのである。また、駿河台分署は駿河台出張所と改称されて本郷消防署が所管、大塚分署は小石川消防署と改称されて、水道町出張所を改称した江戸川出張所を所管、駒込出張所は白山消防署となって、白山出張所を改称した八千代出張所を所管した。
 なお、第四方面内の本郷、小石川、白山の三消防署を統括した第四方面防隊長は、本郷消防署長が兼務することとなった。

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