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東京消防庁目黒消防署災害状況目黒の災害:行人坂

目黒の災害:行人坂

目黒行人坂の火災

目黒行人坂の火災の様子

江戸・東京の地誌である『武江年表』を要約しますと、「明和9(1772)年2月29日、西南の風烈しく、土烟天を覆ひ日光朦朧(もうろう)たり。牛の刻(12時)目黒行人坂大円寺より出火し、麻布、廓内、京橋、日本橋、神田、本郷、下谷、浅草寺を延焼し、余焔千住に達す。

日暮、火又本郷丸山に発し、駒込、谷中、根岸を焼き、翌晦日未刻(14時)双方の火鎮り、此時大雨降風鎮る。此火事長さ六里、幅一里、大小名藩邸寺院神社町屋の類夥(おびただ)しく、焼死怪我人其数を知らず」と記されています。

この火災は、焼失面積において明暦3(1657)年の大火には及びませんが、目黒から千住まで細長く燃え広がり、延焼距離としては、江戸時代から現代までで最も長い火災です。 『北叟遺言』によると、被害は、焼失町数934町、死者14,700人と記されています。 大円寺からの出火は、坊主くずれの無頼漢長五郎(坊主名を真秀)が、大円寺の和尚に破門されたことを根にもって、庫裡(くり)に火を付けたものです。

長五郎が怪しいと睨んだのが、宣以の父長谷川平蔵宣雄で、持前の鋭い勘と執拗な追跡によって、大円寺への放火の罪で捕らえられました。
長五郎は火付けの科(とが)人としてはだか馬に縛り上げられ江戸市中を引き回された後、明和9(1772)年6月21日、浅草の仕置場で火焙りの刑に処せられました。


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